ロンドン橋の魔法



霧のロンドンと言われたのはもう大分前の時代だが、この日はそれを思わせる有様だった。燻るような夕焼けとあいまって、ロンドンの街は不思議な怪しさを漂わせていた。皆どこへ消えてしまったのだろう、そう思うほど辺りは人気がなく静まり返っている。
異様な空気に包まれながら俺はロンドン橋を渡り始めた。一歩踏み出すと頭の中を記憶にある彼女が駆け抜けた。一瞬にの、とすごした時間が全てが凝縮されるみたいな感覚に襲われる。
やっぱり嘘なんじゃないのか――が、死んだ、なんて。
の所属していた部隊の、何とか一命を取り留めた構成員から報告を受けてからもう一月が経つというのに、未だに彼女は生きていて、そのうちひょっこり帰ってくるような気がしている。遺体が返ってこなかったことに一縷の望みを繋ぎたがっているのだ。そんなことはありはしないのに。遺体など残るはずもない程の炎が彼女を包んだということも報告を受けた際に聞いていた。
橋の真ん中まで来たところで俺は足を止めた。否、止まった。不思議な空気が漂っているそこに、懐かしい気配が混じっている。俺はこれを知っている……そうだ、これは、の、
「――びっくりした?」
「……
気がつけば俺の顔を覗き込んでいるがいた。まるで何もなかったかのような、穏やかな表情で、彼女はそこに立っていた。生きていたのか?そう俺が訊くよりも早く、はその答えを告げた。
「私は確かに死んだのよ、この場所で。だから今十代目が見てるのは私の精神…ってところかな」
「そう…なんだ。でも一体どうしてこんなことが」
「さぁね。未練があったからかしら。それとも、ここが特別な場所だからかしら」
どっちでもいいけど、とは付け加えた。
よく見れば、の身体はわずかに透けていて、向こう側の景色が見えた。それが彼女が実体ではないことを証明していた。
どうやって、何から話そうかを決めあぐねている内に、から話を切り出してきた。
「ねぇ十代目。……私のこと、探しに来てくれたの?」
「え?あぁ、うん…そうだよ」
俺がそう答えたら、は微笑んだ。今まで見た彼女のどんな表情より、綺麗だった。
「それなら、嬉しいわ。とっても」
微笑むはとても幸せそうなのに、彼女にはもう未来がない。それが何よりも悔やまれて、胸がつまるようだった。
生きているときに、その表情を見たかった。
の気持ちも、自分の気持ちも、知っていたのにどうしてちゃんと言わなかったのだろう。
、」
「なあに?」
「俺、俺は――」
生前の彼女に伝えられなかった言葉を口にしようとしたときだった。は透ける人差し指で俺の唇に触れ、静かに首を振った。
「だめ。……私はもう、いないんだもの」
「そんな…」
は俺に背を向けて、岸に向かって歩き始めた。そして振り向いて、笑う。
「来てくれて、本当に嬉しかった。最期に会えてよかった。私、もういくね」
「そんな、!」
の腕を掴もうとして手を伸ばしたのに、空気しかつかめなかった。
「さようなら、綱吉」
橋の向こうへと、は姿を消した。
暫らく呆然と立ち尽くし、ふと気がつくと辺りに立ち込めていた霧はすっかり晴れていた。
が消えたのとは反対の方へ、ゆっくりと足を動かす。
「さようなら……
夕闇がロンドンの街をゆっくりと包み込んだ。

071113